AI と 愛 と 哀 と
スティーブンスピルバーグ監督の「A.I.」という映画を観た。
人工知能をもった人間そっくりのロボットが母親(持ち主)の愛を求めていく。
機械が「愛」を持つのか?持っていいのか?
そもそも「愛」ってなんなのか?
「愛する」という表現を簡単に使ってもいいものなのか?
無駄に色々考えてしまった。
映画を観ながら、ふと、ある話を思い出した。
おなかの中の子供に重度の障害があること分かったお母さん。
中絶をすすめる人もいたが、そのお母さんは生む覚悟を決めた。
自分の人生のすべてをかけて、生まれてくる子供を幸せにする覚悟を決めた。
「愛する」とは「覚悟」だと思った。
相手のすべてを受け入れて、自分の人生と共に生きていく。
そこには、貧しい、つらい、怖い、無理などの言い訳は一切ない。
映画「A.I.」ではロボットの母親が、ロボットを自分の子供という「覚悟」もって
接していくはずだった。
しかし、あることをきっかけに捨てられてしまう。ロボットは母親に一人の人間として
みてほしいと願っていた。
「どうして、ぼくを捨てるの?」
「本物じゃなきゃダメなら、本物そっくりになるように頑張るから。」
母親に愛してほしいロボットが必死の思いで言った言葉も通じなかった。
「愛」が「哀」に変わっていった。
「愛」を持って接したはずなのに、「哀しい」結果になってしまう。
そこには「覚悟」がなかったのかもしれない。
自分の命に代えても守り抜く。
親の「覚悟」を子供にも見せていきたい。
そして、未来永劫、親から子へ受け継がれていくことを願うばかり。